第51回

Changes Techma!

 自分の変化を恐れる時と、楽しめる時がある。勢いやテンションを無理に欲しがる時が前者の代表で、自分のしていることの先に明るい世界が見えてきたときが、後者の代表だろうか。前ならこんなことができたはず、と感じるときが前者で、これからはこんなことができるはず、と感じるときが後者、とも言えるだろう。未来に悲観的であるかないか、の違いかな。
 ともあれ、変化、というものが自分の関心を占めるようになって、しばらくたつ。また、かつては変化を恐れる人間をあからさまに軽蔑していたものだが、今はそうでもない。かといって、変化を恐れるようになったわけではない。「変化を恐れる人間は、変化を好む人間に対する警戒心がものすごく強い」ということに気付いたので、変化を好んでいるような素振りをあえてはしなくなったのだ。変化を恐れる人間の警戒心というのは、凄いものだ。更に凄いのは、こういう人間の連帯意識だ。連帯意識というのは良いことのようだが、実はその正体は排他意識だ。この排他意識の標的にされると、とてもめんどくさい。排他意識の標的になった人には、個性的、という称号が与えられる。これを、「おお、自分は個性的と認められたのか!」と喜んではいけない。「連帯している人間以外は、全員ひっくるめて個性的ということにしておく」のが奴らのやり方だからだ。簡単に言うと、椎名林檎に憧れてるあの子も、スティーヴ・ヴァイに憧れるその彼も、ゴスロリなあの子も、プログレッシヴな音楽をポップな感性で演奏している彼も、神保町で太宰治の書簡集を漁るあの2人の子持ちの奥さんも、VANの亡霊にとりつかれたあのおシャレなおじさまも、みーんなひっくるめて「個性的」というフォルダに入れているからだ、奴らは。誰もあなたの細かい感受性なんて受け入れてくれやしない。
 このように考えるようになり、あからさまな敵意を出さなくなるように変化してきたわけだが、この変化は前向きなのだろうか?後ろ向きなのだろうか?と悩む。これが難しい。奴らと無駄に争うよりも、自分のすべきことをきちんとしてゆくことが大事なのだからこれでいいのだ、という考えがひとつ。もうひとつは、そんなこと考えてる時点で奴らの思う壷だ、例え勝算は無くとも正面から戦わなければ奴らがのさばるだけだ、という考えだ。どっちが未来に悲観的なんだ?考えれば考えるほど、難しい。
 とはいえ、変化しない奴らというのは思考を放棄しているわけだから、苦しくても、考えることに意味がある。考えなくなって、変化を恐れるようになったら人生はもう終わったようなものなんだろう。今目の前に光が見えなくても、変化を止めてはいけない。今度は、モア・ベターよ。人身ばいばーい!

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